長州藩を中心とする尊攘派の動きに

長州藩を中心とする尊攘派の動きに対して、薩摩?会津の両藩は同年8月18日、朝廷内の公武合体派の公家とともに朝廷内の実権を奪った、長州藩勢力と急進派の公家三条実美(1837~1891)らを京都から追放した(八月十八日の政変)。長州藩は勢力を回復するために、翌1864年、池田屋事件を契機に京都に攻めのぼったが、薩摩?会津両藩の兵に敗れて退いた(禁門「蛤御門」の変)。幕府は禁門の変の罪を問うために、長州征討(第1次)の軍を出し、また貿易の妨げになる攘夷派に一撃を加える機会を狙っていた列国はイギリスを先頭にフランス?アメリカ?オランダの四国連合艦隊を編成して下関の砲台を攻撃した(四国艦隊下関砲撃事件)。この動きのなかで長州藩の上層部は恭順の態度をとり、藩内の尊攘派を弾圧した。すでに薩摩藩は前年に、先の生麦事件の報復のため鹿児島湾に進撃してきたイギリス軍艦の砲火を浴びており(薩英戦争)、攘夷の不可能なことは次第に明らかになった。列国はさらに、1865年に兵庫沖まで艦隊をおくって圧力をかけ、条約の勅許を勝取り、翌年には幕府と交渉して改税訳書に調印させた。
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